恵那市 明智光秀公生誕地 恵那市

Ochiai Fort

落合砦

明智光秀公が生誕した地 「落合砦」と明知遠山氏の居城「明知城」

明智光秀公が生まれた砦

伝承によれば、明智光秀公は落合砦で生まれ、産湯として使ったとされる井戸が今も残されています。砦は鎌倉時代の宝治元年(1247年)明知城が築城された頃、西南にあたる高台に戦略上重要な地点として、落合砦が築かれたとされています。いざ戦いともなれば、城山の各砦とも呼応して前線基地となり出城の役割を果たし物見、のろし台などもあり戦略上のひとつの拠点であったと考えられています。
南北街道の盆地への出口や、中馬街道を牽制するとともに、別の尾根からは三河の山並みが望見できます。

明智光秀公が生まれた砦

明知城(白鷹城)は、鎌倉時代から遠山一族の惣領家として続く名門・遠山明知氏の居城であり、遠山荘南部の要の地として幾多の攻防の舞台となった。宝治元年(1247年)に明智遠山氏の始祖、景重が築城したとされ、天正2年(1574年)に武田勝頼に攻められ落城しました。自然の地形を巧みに利用した山城で、城の遺構いこうは山頂の二つの曲輪と通称「出丸」を中心として、東西400m・南北300mの城山の全域に広がる。特筆されるのは、主要な曲輪を囲繞する大規模な横堀・堀切と、これと連動し斜面に直行するよう放射線状に設けられた畝状竪堀群です。このほかにも出丸の巨石列や貯水池、山麓に構えられた近世旗本遠山氏の陣屋など見所は多いです。規模・構造ともに美濃国を代表する山城です。
明知城主(白鷹城)の遠山景行は恵那叢書によると、「景行は土岐の族、初光安と称し斉藤道三等に仕う後、遠山景行入道宗宿と号す」とあるように、明智光秀の叔父である明智光安と同一人物とされる説があり、明知遠山氏と土岐明智氏との間に深い関係があったと推測されます。

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